蝉の声は遠く、波が打ち寄せて素足に触れては引いていく。制服を捲り上げ、ローファーにソックスを突っ込んで両手にぶら下げたまま、砂浜を踊るように歩いていた。歩は前を行く啓の背中を追いかける。啓が振り返ると傾いてきた陽射しと重なって眩しい。
いつだって啓は歩の先にいた。出会った時からずっとだ。天才。その言葉が相応しい。
小学生の時、環境保護ポスターで市長賞をとったのを皮切りに、夏休みの課題が載る冊子の表紙を飾り、平和祈念ポスターでも金賞を受賞した。その才能は絵画に留まらず、粘土や工作などの造形でも幾つも賞をとっている。陶芸、彫刻、啓は何でも挑戦したし、どんなに初心者でも持ち前のセンスでコツを掴んでしまうのだ。中学でもそれは続いたし、高校に入っても同じだった。一方、歩はどんなに頑張っても二位、たいてい佳作止まり。誰より絵を描くことが好きだと自負していたのに、その情熱は空回りし、評価に繋がることはなかった。
啓は、美大に進学するに違いないと、信じていた。
「体育大に進学する」
高校二年の夏。啓にそう言われた時、歩は耳を疑った。確かに啓は美術ほどではないが身体を動かすことが得意だ。それでも、何故、と思わずにはいられなかった。
「どうして、」
歩が訊ねると、啓は今まで見せたことのない、諦めのようなものを滲ませた表情をした。
「賞とか大人の為に描いてるみたいで、きつい。趣味ならとやかく言われなくて済むだろ」
そんな。歩は憤った。そんな理由で、美術を手放すのか。神に愛された手を持っている癖に、歩がどんなに努力しても届かない領域にいるのに、それをあっさりと。
「歩にはわかんないよ」
「わかるわけないだろ!」
歩が声を荒らげると、啓はびっくりしたのだろう、びくりと身体を硬直させた。
「お前の見てる世界なんてどうせ俺にはわかんないよ! きっと一生わかんない! でもさ、お前言ってたじゃん、美術好きだって! 大人に負けんのかよ、お前の好きな美術であいつら黙らせてやれよ!」
気付いたら涙が滲んでいた。悔しかった。今気づいた。啓の作品に誰より嫉妬していた歩は、啓の作品が誰より好きだったのだ。それが大人の土足で蹂躙された結果、もう見られなくなることが、残念でならなかった。
「歩」
もう、その心が固まっていることは察することが出来た。歩は涙をシャツの肩のところで拭うと、啓の腕を掴む。
「海行くぞ」
意味なんかなかった。この後の授業なんてどうでもよかったし、美術部の活動なんてもっとどうでもよかった。啓と、このまま何処かへ行きたいと思った。たまたま電車一本で行ける海が候補に挙がっただけだ。啓は真剣な顔で頷いて、それから子供のように嬉しそうに笑った。
「行こう、海」
着いた頃には、夕方だった。鞄を砂に放り投げ、ローファーを脱いで波と遊ぶ。このままずっと、ふたりきりでいられればいいのに。天才も凡人も、進学先も、美術も、何にも関係ない、ただの幼馴染ふたりで、波と戯れていられたら。
「歩、陽が沈む」
山の方へ、陽が沈んでいく。海が朱色に染まり、空から天鵞絨のように群青が降りて来る。ああ、水彩で描いたら綺麗だろうな、と思ってから、きっと、自分は美術の呪いから逃れられないのだと知る。啓もまた、その呪いにかかっている。
「なあ、アイス食べて帰ろうぜ」
「うん」
何の衒いもなく、帰ろうと口に出せる啓が羨ましかった。歩は、夏の終わりの気配をすぐ傍に感じながら、海に背を向けた。